杉木氏エネルギー論壇

ダム・水力考……………これからも必要だが、新しい考え方が欲しい

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流域変更反対

足立氏HP 000322ZD に四国、四万十川発電所水利権の更改とダム撤去のニュースがでている。出力15000kw、発生電力量約9300万kwh、約3万世帯に供給している佐賀水力発電所
http://www.yonden.co.jp/denryoku/suiryoku/saga
の存続反対の報道である。ある高名なTVのニュースキャスターが、「川に本来あるべき水がない。ダムのない四万十川にダムがある」とコメントしていた。(高さ15m以上をダム、以下を堰と呼んでいるため)堰直下流の人々や支援者が「清流と自然を取り戻そう」と、堰と発電所の分水(流域変更)に反対している。

自然を楽しむため、ダムのない川をボートやカヌーで下るスポーツを紹介した本が書店に並んでいる。技術の進歩により、ボートの素材はグラスファイバーやプラスチックで軽くなり、少しぐらいの上流でも、バイクや自転車に積み込んで運べるそうで、国中の川を選んで楽しんでいる。ダムや堰がなければもっと自然を楽しめるとのことである。 NIMBY(NOT IN MY BACKYARD)という言葉がある。自分の裏庭では嫌だという直接関係者の反対は少しは理解できる。しかし、自然環境の保全ということで、ダム・水力が否定されるような大きな理由になるのだろうか。人間の手の加わらない自然が本当に必要なものかどうか疑問である。

人間は、自己内部でどうしても論理的整合を保てない自己矛盾の生き物であると思う。したがって、少々の不合理や矛盾はさほど気にならないし、日常の生活に大きく影響することもない。水は通常上から下へ流れるが、乱流ともなれば部分的には逆流したり、飛び散ったりする。物事はすべて同じ方向に向いて動いているものではない。しかし、全体としては下流の方へ流れていく。ときとして、渦が大きくなり乱流の方向を変えるときがあるかも知れない。が、それは、渦が大きくなったからではなく、渦が大きくなる必然性があってのことである。最近のダム・発電所に対する反対は、流れの方向を変えるような渦なのか、そうだとしたらその理由がある筈である。

 野外スポーツや自然の観賞は結構なことであるが、そのために川を原始河川に戻せという意見には賛成できない。近代科学と技術の粋を集めた、軽量ボートやカヌーを利用しながら、そのような生活を可能にしている、エネルギーや農業用のダムや水路をなくせというのは、自分達の生存基盤を忘れた要望である。動物愛護を叫びながら、動物性蛋白質を摂取するのも同様であろう。四万十川の発電所・分水は継続を希望する人たちもいる。「昔マルクス、今環境」的な理想論は、外国思潮かぶれか、自分たちの生活の成り立ちを考えない一見知的な迎合主義である。ダムや分水を否定すれば、東京都をはじめ、ほとんどの大都市は水が足りなくなるだろう。流域変更は自然の恵みを分かち合う一つの方法である。川はそばに住む人間だけの独占物ではない。


水も電気も本当に節約できるのか

 第一次大戦後、シベリヤにあったドイツ人捕虜収容所の話。ドイツ人の捕虜が毎夜不要になると照明を消しに廻るので、ソ連の収容所長が、「敵国の電気だからそれほど熱心に消灯する必要がないのではないか」といったところ、ドイツ人捕虜の答えは、「電気というものはいらないときには消すものだ」、と答えたという。いかにもドイツ人らしい話であるが、京都のCOP3(第3回気候変動枠組み条約会議)で、欧州勢がCO2削減目標を大きく主張した積極性も理解できるような気がする。

日本人は教育レベルは高いといわれるが、公徳心に欠けるところがあり、最近益々目立つようになった。水・エネルギー問題では必ず節約論が唱えられ、節水や省エネが話題になる。話題にはなるが定着したことがない。高度成長期以降、水・エネルギー多消費型産業が少なくなり、産業用の需要は減ったようであるが、民需・輸送関係は増加している。可処分所得からみれば、相対的に水・エネルギーはまだ安くて便利であり、湯水の如く使われ、今後も減るとは思えない。水は、降水量の季節的な変動の他、周期的におとづれる異常渇水により社会問題になることがある。戦後、東京、長崎、名古屋等で、渇水が新聞紙上話題になったことがある。最近は、ペットボトルのお陰で、とりあえず、飲料水、食事等の最低の心配はなくなった。したがって、本当に水や電気を節約しようという大きな運動には至っていない。


代替手段

節約が理想どうり実行できないとすれば、都市化や異常渇水に備えて、さらに水を開発しなければならない。水の開発は、代替手段として海水の淡水化がある。しかし、消費エネルギーが多く、化石燃料を用いての大量造水は困難であろう。いよいよ不足すれば、飲み水と雑用水を分けることである。2元給水は経済的にコスト高というだけで技術的には可能である。使用区分で雑用水となれば、回収による再利用率をさらに高めることができる。、だが、節水や利用方法にも限度があり、それ以上はいまのところ、やはり、遠方(域外)からの導水ということになろう。流域変更が許されるなら、水の輸送コストはそれほど高くない。高所から低所への流域変更は水力発電所を利用できる。その反対は、ポンプによって揚水するすることになるが、100mの揚程で水1m3当たり数円のオーダーである。設備利用率の低い揚水発電所を利用すれば、面白い計画ができそうである。

 流域変更が困難ならば、広域的に水を管理・運用する方法がある。現在水道事業は地方自治体で運用されている。たいていは自己水源を持っているか、広域水源に依存している。琵琶湖のように大きな水源を持っていると比較的安心であるが、小さい水源では涸れると大変である。したがって、水道事業にとって水源の信頼度は重要な問題である。需要が増えると、水源を確保するため周辺でダム地点や地下水を調査するが、大都会周辺ではだんだん水源の確保が困難になってきている。そのために、いろいろな手段で流域の変更が考えられる。

 流域の変更は、普通、供給側の水源で考えられる。隣同士の川は繋がっていないので、連絡に導水路が必要である。しかし、消費側の市町村はとなり同士隣接しているところが多い。とくに東海道、山陽道沿いはほとんど連旦している。そうであれば、それぞれの、水道事業者の依存水源を隣にずらすことによって、川の上流で流域変更するのと同じ結果が得られることになる。物理的にはこの方が経済的な場合もあるが、前述のように、既得水源の信頼性や、事業体としての主体性の問題等がありそうである。しかし、水需要がいよいよ逼迫すれば、このようなことも考えられる。例示的にいえば、岡山の水不足は静岡や紀伊半島でダムを造ればよいのである。水源のスワッピングである。

 「森林を涵養すればダムは必要ない」という意見がある。ある条件の下では事実である。それは、人口密度がシベリヤのように少ないところのことで、日本のように、1km2に300人以上も住むところの話ではない。森林の保水性で期待できるのは渇水期にせいぜい1〜2mm程度の雨で、1km2当たり一日で1000m3程度である。一人当たり一日3m3になるが、そのためには、四万十川から大阪へ導水するような、距離を無視した日本全国平均の話である。また、渇水量(一年の内355日流れている水量)程度の水量は既に農業用として川の近傍で利用されている。

 渇水量以上低水量(一年間で275日流れている水量)まで利用しようとすれば、不足する90日間を補給する水を何処かで貯めておかなければならない。そのため貯水が必要になる。人口密度の低いところでは低水量程度の需要ですむが、大都会になると平水量(一年の内185日流れている水量)以上、豊水量(一年間で95日流れている水量)近くまで需要が大きくなる。そうなると、半年を超える分の水を何処かで貯めておかなければならない。有効降雨量(河川の水になる降水量)が年間1000mmのところでは、水深1mのプールに貯めると、必要なプール面積は流域(集水域)面積の半分になる。適当な地形を求め、平均10mの水深とすると、必要面積は十分の一と小さくなる。地下に貯めてもその設備費用は1m3当たり数万円かかり、水のコストは千円以上で話にならない。土地の生産性から考えると、ダムの高さを高くしてできるだけ水没面積を小さくするようになる。それでも、近傍の河川だけでは足りなくなり、次第に水需要に余裕のある遠くの河川から流域を変更し導水することになってくる。

 流域変更は昔から困難を極めた事業であった。それこそ、むしろ旗を掲げ血の雨が降った水争いの歴史である。それは人びとの生存にかかわる問題であったからである。高度成長の時期、太平洋ベルト地帯は水不足で悩んでいた。各所で、相対的に水の豊かな裏日本(日本海側)から流域変更が計画されたことがある。「江戸時代は米、明治・大正の頃は労働力や電気、今度は水まで収奪するのか、我々は太平洋側の植民地ではない」という主張を聞いたことがある。もっともと思われるところもあるが、広域社会・経済圏の資源利用としてやむを得ない。

 都市が成長すると需要が増え、だんだんと遠くに水源を求めるようになる。高度成長期の水不足は、回収利用率の向上で緩和された。何よりもバブル景気の下降で需要が減ったこともあり、遠隔地からの導水の必要性は少なくなった。しかし、需要地から見た水源の位置は、近傍(地下水・河川)→遠隔地(流域変更)→近傍(回収再利用)→遠隔地(?)と遠近を繰り返している。これからの水源確保は遠隔地へ向かうのか、再び回帰して需要地自己内で解決の方法を見いだすのか興味深い。


ダムの湛水面積、貯水量、そして寿命

 環境はダムによってどの程度まで影響を受けるのであろうか。「国中がダムだらけ」という表現がどの程度のものなのか。日本の代表的な河川について、流域面積、ダムの湛水面積、貯水量等をみると、ダムの湛水面積は、その川の流域面積に対して1%未満である。利根川は約2%となるが、霞ヶ浦を除くと1%以下になる。霞ヶ浦の流域面積に対する湖面積の割合は約10%である。自然湖として大きい琵琶湖は17%である。一般に、ダム湖面積の流域面積に対する比率は数%以下で非常に小さい。世界中には、スリナムのアフォバカダムのように、霞が浦に近いようなダムもあるが例外で珍しい。土地の生産性や社会的な影響を考えると、そのような水没面積のダムは経済的に成立しない。たとえていえば、会津盆地や奈良盆地を湖水にするようなもので、琵琶湖や霞ヶ浦は自然湖であるから存在している。もともとなければ、あのようなところにダムを造ることはない。

 日本は山国で平地は少ないが、世界的に見てもダムによる人工湖の占める面積は日本のそれと大きく違わない。世界中には、日本と比較して、遙かに生産性の低い土地が多い国がある。治水・利水、発電等で貯水池として利用することは、その土地の生産性を高め付加価値を付けることになる。その土地の年間降雨量と同じ高さのダムであれば、乾期半年間の水を確保するのに、流域面積の半分の貯水面積が必要であるが、ダムの高さを100mにして、平均水深を数十倍にすると、必要な貯水池の面積は数十分の一、すなわち1%程度になる。ダムの高さ、湛水面積、貯水量は、気象・地形等の制約条件からおよその限度がある。したがって、自然環境に与える影響もおのずと限られてくる。

 ダムの高さは、流入する河川流量によって決まってくる。発電の場合、ダムの高さを高くすれば、落差が増え得られるエネルギーは比例して大きくなる。しかし、ダムの体積は高さの3乗に比例し、工事費が急激に増加するため経済的に限度がある。河川の流量はその流域に降る降水量である。一般的には、一日に1〜3mmの水量は、蒸発・浸透等でなくなるから、河川の流量として流れてくるのは、年間の降水量から300〜1000mm引いた量である。年間降水量が1500mmのところでは、およそ500mmの損失を引いた1000mm程度が河川流量となる。

 この1000mmの雨量は、年間均等に降るのではなく、その2/3は雨期に集中する。そこでダムによって、集中する雨を貯水する。季節的な降雨の変動から、ダムの貯水容量は大体年間流量の1/3程度あれば、かなり流量を調整利用(河川流量利用率50%程度)できる。ダムの貯水容量が年間流量の1/3ということは、調整率30%のダムということになり、流域面積にもよるがかなり大きいダムである。調整率は大きければ大きい程よいが、ある程度以上になると効率が悪くなり、経済的な理由で限度がある。

日本には約3200のダムがあり、総貯水量305億m3、総湛水面積約22万haである。ダム一個当たりの平均貯水量は960万m3 、湛水面積は平均70ha、湛水面積当たりの貯水深は平均14mである。河川勾配を考えると、実際のダムはもっと高くなる。湛水面積は、国土面積の0.6%である。よくダムで森林が水没し自然破壊が進むといわれる。しかし、かりにダムの湛水池すべてが森林であったとしてもこの程度でが限度で、そのために大きく環境が変わるとは思えない。

日本の水力発電所の発電量は年間約900億kwhである。化石燃料で発電すると、およそ1800万トンの炭素が排出される。これに対し、全ダムによる森林水没が原因で、炭酸ガスが吸収できなくなる炭素量は130万トンで、炭酸ガスの削減量から見ればダム・水力は14倍も貢献していることになる。ダム直下流の減水や一面的な見方から、ダム・水力を否定するのは、何かに憑かれた偏見のような気がする。

表土は、年間におよそ、厚さ1〜5mm降雨によって流出する。ダムの堆砂量は、その地域の流出土砂量の100年分程度考えられている。日本の国土面積を約37万km2として、土砂の流失を1mm/yとすると、その量は毎年約4億m3となる。個々のダムによって、土砂の堆積によって寿命は違うが、多くのダムは50〜100年で機能障害が現れるのは避けられない。21世紀は新しいダム開発と同時に、寿命のきたダムの再開発を考えなければならない。そのときに必要なことは、単に技術としてのダム・水力開発でなく、広く社会環境も含めた総合事業として考えることだと思う。「築土構木」(土を築き、木を構える)という言葉がある。「土と木」は材料、「築と構」は材料を利用するソフトウェアーである。これからはさらに、「築土構木」の価値を見極めることが大切である。一面的な自然環境論で早計な結論を下してはならない。000405


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