私の主張 15

ー カリフォルニア電力危機とアジアの電力セクター改革に思う ー

(2001/02/09)

ー 本案への,専門家の皆様のご意見です -
(随時掲載させていただきます,ご協力,有り難うございました)


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2月9日の私のHPでは,「東京電力の電源開発延期に各紙の論評」と「加州デービス知事,電源開発に邁進」の二つのタイトルが対照的に並んでいる。また昨夜は,NHKの国谷祐子さんの,「カリフォルニア電力危機特集番組」で専門家の話を聞く,また,今週の月曜日には,日経新聞の経済教室の欄で,佐和京大教授と早田さん(科技振研究員)が,「米カリフォルニア州電力危機の教訓」と題して,我が国のとるべき道を論じておられる。昨日の日経新聞は,「英国電力市場,需要家も参加」として,供給不足懸念の声を報じている。早速,ネット上で他に何か議論が行われていないかと探してみたが,即時性という意味では,目立つ論評はない。私は,「供給責任」と「電気料金の逆ざや」と言う二つのキーワードを自ら挙げながら,注意深く各紙の論評に眼と耳を傾けたが,今までのところ,各論評とも,最後のところで痒いところに手が届いてくれないいらだちを感じる。これは,電力に携わった人ならば誰でも感ずる問題点であるが,世界の途上国との関連を見ながら,私なりの思いを書きとどめておきたい。それはおそらく,私の歩んできた道が,経済成長期の国内の電源開発と,最近の世界の途上国で吹き荒れる電力セクター改革の,二つにかかっていることに絡んでいる。要は,大規模電源に対しては,「見えざる手」は働かない。また,電気料金の逆ざや問題をそのまま放置して,電力セクターの分割民営化に手を付けることは,間違いではないか,と言いたいのだが。


1. 電力の供給責任

昭和40年代初頭の,「電力の供給責任」を錦の御旗にして,揚水発電の開発に走ったあの頃の興奮を忘れることは出来ない。最初のプロジェクトが原生林の問題から失敗して,供給力確保の上から後がなくなり,大胆な技術的判断に頼って,急遽着工に踏み出した奥多々良木揚水発電所が,たまたま,良好な地質,という僥倖に恵まれて,何とか供給力を保ったものである。1980年代のインドネシアも同様の状態であった。夜を日についでの電源開発に明け暮れたものである。日本の電力は,地域独占であるからこそ,絶対的に供給責任を背負わされてきたわけで,経済の成長期にあっては,それこそ独占の上に立った,電力企業の絶対の義務であった,と言っていいだろう。

この「供給責任」と言うテーマーは,カリフォルニアではどのように考えられてきたのか。規制緩和の当初,既成の電力企業が所有していた電源は,各民間企業に売却された(図参照)。この後の設備投資の資料を手繰ってみて,どうも供給責任は,自由競争の場で達成できると考えた節がある。供給力に余裕が出てくると,プール市場で売り方の競争が激しく売電が困難となるので民間電力企業は電源開発の手を緩める,逆に供給力が不足してくると売り手市場で売電が容易となり,多くの企業が電源開発を急ぐようになる,このようにして巧妙に需給のバランスがとれて,電力の需給システムがうまく動いて行く,と考えたようである。一般にはこれは正しく,ものの生産ではまさしくこの原理が市場を円滑に動かしてきたわけである。敏感に変わって行く料金の変化に(カリフォルニアの料金変化電気代変化),設備投資が追随できると考えたのである。

電力に於ける問題は,他の生活用品の生産などと違って,原子力や水力の場合は,計画してから設備投資を行って売れるまでに,悠に10年はかかるという問題であろう。誰かが責任を持って10年から20年単位で見つめていなければ,とても需要の変化に供給が追いついていかないことになる。おそらく,この10年という月日は,自由経済の見えざる手で追従するには,あまりにも長すぎると言うことだろう。木に竹を接いだ,と言うか,時系列の上で桁の違う二つの要素を絡み合わせようとしたことに問題があるのではなかろうか。こんな簡単な理屈でも,電力やさんと経済やさんの息が合わず,経済やさん主導で改革が進むと,如何にも陥りそうな錯覚である。

地域独占を許された日本の電力企業は,10年単位で需要と供給の関係を睨みながら電源の開発計画を作って行くが,これには適切な予備力を考えて行く。昔は予備力は8%と言われて,4%がホットリザーブですぐに立ち上がれる電源,4%がコールドリザーブで,立ち上がりは遅いが,脱落した設備を能力的にも完全に代替できるもの,と言うのが基本的な考え方であった。昭和40年頃に,電力供給の質を上げるために,停電の確率を10年に一度にしよう,との方針が確認されて,予備力が10%に引き上げられたのを記憶している。火力や水力,送電線の事故率を統計的に処理して,停電の確率と必要な予備力の率を計算するわけである。それ以降,日本の電力は10%の予備力を常に下回らないように,毎年その先10年の長期電源開発計画を見直して,通産省の認可を得て実施に移して行く,という緻密な供給力確保への努力が行われてきた。だから,例えば2010年に系統に投入すべき大規模な電源,例えば原子力や揚水発電所は,今から調査を開始して準備に入る,と言う理屈である。勿論,需要が動いたり計画が環境問題などから遅れて,たびたび見直しが要求されるが,それは毎年,10年長期計画を作りなおして対応してきたわけである。

最近のカリフォルニアの報道によると,デービス知事は,週内に「電力担当最高責任者」を任命することを明らかにし,建設中の5カ所の発電所の完成を急ぐ一方、2002年までの任期中に新たに15の発電所建設を開始、将来の電力不足に備えると述べた(010122C)。これに私は注目したい。需給のバランスをとるのは市場の責任,と言うことに無理があるならば,誰かが供給責任を持って,10年程度の先行きを見通しながら電源を準備して行く必要がある。「最高責任者オフィス」が経済の先行きも含めて,大きな見通しを立てながら,緻密な電源開発計画を作成して行くのである。2004年に,カリフォルニアと同じ方式でプール市場方式を採用しようとしているタイでも,その「電力産業基本法」の中で,最高責任者の地位を設けようとしている(010210G)。しかし,このように最高責任者または供給責任を持つ組織が作られたとしても,一方で電源は市場の経済に任せて,私企業に建設・所有更には運転を行わせるので,最終的にはIPP企業がどのように電源開発を進めて行くか,ということを確実に見通せなければ,供給責任は全うできない。個々のIPP企業は,全体の供給責任をとることは出来ない。タイが,自らの手で電源開発を行わないとすれば,この問題をどのように解決して行くのか,聞いてみたいところである。

カンボディアが,平和回復の時に,公的資金をフルに活用して,プノンペンの電源設備の回復を成し遂げたことは記憶に新しいが,電力市場がまだ十分に育っていないプノンペンでも,マレーシアなどのIPPプロジェクトの参入が相次いだ,このため,公的資金は一斉にそれ以上の電源支援をうち切ったわけである,日本の無償で復旧した第4発電所も,更に3号機の支援を受けるべく,基礎の準備まで行ったが,それ以上の日本の公的資金の投入はなかった。このように,一旦,電源をIPPに譲ると,それ以上を政府系の資金で電源の手当を行うことは難しくなり,供給責任も個々の私企業の投資意欲に任さざるを得なくなり,政府は手をこまぬいて傍観することになってしまう。このプノンペンやスリランカの電源の開発の状況を見ていると,目前の需要の伸びを見て,即効的にすぐに建設できるにディーゼルやガスタービンを入れて行くので,あれよあれよと言う間に,燃料費の高い電源が増え,電力生産の原価が高くなってしまうのである。電源はIPPに任せろ,という考え方の世界銀行やアジア開発銀行の援助の方針は,この点で少しく見直しが必要だろう。


2.電気料金の逆ざや

電力経営の基本は,電力生産の原価と消費者への売電単価のバランスをとることである。日本の電力は,生産原価を緻密にはじき出して通産省の審査を受け,この原価に基づいて電気料金を決定してきたから,為替などの不確定要素の短期的な影響は受けるとしても,需要は地域独占であるし,安心して供給責任に集中することが出来た。最近は一部自由化の影響で今後幾分かは変わるであろうが,供給の大部分を電力会社が担っている限り,全体的な様子はそう急激には変化しないだろう。日本の電気代は高いと言われながらも,国民はこのプロセスを受け入れて,安定した良質な電気の恩恵の元に,近代的な生活を送ってきたわけである。しかし,他の発展途上国で,電気代は極めて政治的である。

1998年5月のインドネシアの政変を見ると,電気料金が如何に政治的かがよく分かる。98年4月22日には,スハルト政権は忠実にIMFの方針に従うことを誓約し,電気料金の値上げも含んで,為替で混乱する経済を何とか立ち直らせたいと努力していた。4月23日の報道を見ると,PLNは混乱する電力民営化路線は規定通り,と発表している。ところが,この電気料金改定問題で社会不安の兆しが見え,政府は慌てて5月4日には,「貧しい消費者には安価な電気料金を適用する」と急遽取り繕う,ところが,5月9日には学生や労働者が一斉に蜂起して,燃料と電気料金値上げを反対の旗印として国会に押し掛ける,この波はどうすることもできなく,5月14日には遂に外務大臣の口からスハルト大統領の辞任の意志が伝えられる,そうしてスハルトの去った6月9日には,PLNが,スハルト前大統領にリンクしたIPPプロジェクトには責任を持たない,と発言して,大きく電力民営化の線が崩れるわけである。かくの如く,電気料金は発展途上国においては,極めて政治的である。

1980年代に,世界銀行や日本の公的資金で電源開発を続けてきたインドネシアの電力セクターは,為替の激動で,生産原価と電気料金の格差が広がり,どうしようもない状態に追い込まれている。中国(98年当時で3.65セント),ラオス(同じく1.63セント),ベトナム(6.59セント)なども,明らかに政府の助けで電力セクターが生き残っているので,一般消費者は電気に対して正当な電気料金を支払っているとは思えない。これはそれでよいのである。その代わり,電力の完全民営化は無理な話で,民営化することによって電力セクターが採算をとるために電気料金を上げようとすると,インドネシアのような事態に落ち込まないとは言えない。この逆さやは,国の懐から賄われているので,言うなれば,他の重い納税者,例えば上海の産業が中国国内の電気消費者を助けている構図で,これで収まるならば,それで行けばよい,と言うことである。

比較的大きな電気料金を消費者が負担している国は,ミャンマー(23.28セント),日本(18.2セント),カンボディア(14.35セント),フィリッピン(13.32セント),バングラデシュ(13.2セント),マレーシア(10.32セント)である。この中で,日本とマレーシアは,電力消費者が十分に電力セクターの自立を支えるほど成長してきていると言えるし,ミャンマーとバングラデシュは,まだ電気が十分に大衆に行き渡っていないので,今後,電化が進むに従って,どのような反応が出てくるか,注目の必要がある。カンボディアも同様であるが,電源を大いに無償資金やソフトローンが支えたにもかかわらず,ディーゼル発電に大きく依存したために,この修正が必要となってきている。フィリッピンは料金が高止まりであるが,民衆の不満,暴動となっては顕在化してきていない。政府も,包括電気事業法案を議会の場に挙げて議論しており,それなりの努力を,一般大衆も納得しているのであろう。インドは,電力の確保が州別で,民営化も州毎に進められており,それぞれの州が問題をはらんでいる。タイはやや安め(6.91セント)だが,最近のニュースを追いかけると,じわじわとあまり目立たないように,電気料金値上げの努力が感じ取れる,それは2004年の完全民営化を睨んだもので,さすがタイである。(電気料金は海電調資料を参照した)

このように見てくると,この電力生産原価と電気料金の逆ざやという問題は,国の電力セクターの歴史によって,状況が大きく異なる。マレーシア,タイ,フィリッピンは,今後大いに,カリフォルニアの経験から供給責任という問題に留意しつつ,緩やかに規制緩和,分割民営化の線を進めると考えられ,支援する必要がある。アジアどこに行っても,まず国営電力会社の解体,売却または民営化,電源はIPPが基本,場合によっては配電部門も競争,と言う電力セクターの同じ公式を当てはめることは,間違いであることは容易に理解できる。インドネシアの逆ざや解消は容易な話ではない,従来通りのPLNの国営電力会社による強力な電力政策が必要だろう。中国,ベトナム,カンボディア,ミャンマー,ラオスに,公式通りの電力セクター改革を押しつける前提としては,逆ざやの解消をまず目指すべきだろう。インドはやはり,農業料金優先で逆ざや問題が大きく残っている。


4.むすび

電力セクターが供給責任を全うするためには,供給責任の所在を明らかにしてその機関が,長期的な構想の元に,電源開発を主導する必要があり,特に基幹となる原子力,大規模水力,揚水発電所などは,公的機関か,地域独占などの優遇を受けた機関が余裕を持って,計画する必要があろう。電力民営化の基本は電力市場が成熟していることが条件であり,生産原価と電気料金の間に逆ざやが存在する間は,急激な規制緩和,独立採算,分割民営化等の改革は困難であろう。「成熟した電力市場」とは何か,と言うことになるが,私は,適切な電気料金を十分に負担できる富裕な層が消費者の中核をなすことで,端的に言えば,夜暗くなってから電気をつけ,早朝に起きて暗い間に消費する点灯需要を相手にしていたのでは,電力セクターは自立できない,あくまで,朝9時にビルに出勤してクーラーとコンピューターのスイッチを入れ,工場の機械を動かし,夕方5時にはこれらのスイッチを切って家路につく,昼間8時間のピーク需要が育ってこそ,真に自立できる電力セクターとなる。このとき,農村や貧困層への救済をどのように考えるか,それはまた別の問題である。

以上



以上

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